「羊をめぐる冒険」の翻訳(48)
2 二番めの鼠の手紙(1)消印は一九七八年五月?日
この前の手紙で僕は少ししゃべりすぎたんじゃないかと思っている。でも何をしゃべったのかすっかり忘れてしまった。
僕はまた場所を移った。今度の場所はこれまでの場所とはまったく違う。今度のはとても静かな場所だ。僕には少し静かすぎるかもしれない。
しかしここはある意味では僕にとってのひとつの終結点だ。僕は来るべくしてここに来たような気もするし、またあらゆる流れに逆らってここまで来たという気もする。僕にはそれについて判断を下すことができない。
これはひどい文章だ。余りにも漠然としていて、たぶん君には何のことだかさっぱりわからないだろうな。あるいは君は自分の運命に対して必要以上に意味を与えすぎていると思うかもしれない。もちろん君にそう思わせる責任は全て僕にある。
しかし君にわかってほしいのは、僕が現在置かれている状況の中枢(ちゅうすう)を君に説明しようとすればするほど、僕の文章はこんな風にバラバラになってしまうという史実だ。でも僕自身はまともだ。これまでにないくらいまともだ。
具体的な話をしよう。
このあたりはさっきも言ったようにおそろしく静かだ。他に何もすることがないから毎日本を読んで(ここには十年かけても読みきれないほどの本がある)、FMラジオの音楽番組やらレコードやら(ここにはずいぶん多くのレコードもある)を聴いている。こんなにまとめて音楽を聴いたのは実に十年振りだな。ローリング?ストーンズやビーチ?ボーイズがいまだに活躍(かつやく)しつづけているなんて驚くほかはない。時間というのはどうしようもなくつながっているものなんだね。我々は自分のサイズにあわせて習慣的に時間を切り取ってしまうから、つい錯覚してしまいそうになるけれど、時間というのはたしかにつながっているんだ。
ここには自分のサイズというものがない。自分のサイズにあわせて他人のサイズを賞めたりけなしたりするような連中もいない。時間は透明な川のように、あるがままに流れている。ここにいると時々、自分の原型質までが解放されてしまったような気がするんだ。つまり僕はふと自動車に目をやるんだが、それが自動車であると認識するまでに数秒かかることがある。もちろんある種の本質的な認識はあるんだけれど、それが経験的な認識とうまく交わらないんだね。そういうことが最近すこしずつ多くなってきた。たぶん長いあいだ一人ばっちで暮らしているためだろう。
ここからいちばん近い町まで車で一時間半もかかる。いや、町というほどのものじゃないな。おそろしく小さな町のそのまた残骸だ。君にはきっと想像もつかないだろう。しかしまあ、とにかく町だ。衣類や食料品やガソリンが買える。もし見たければ、人の顔も見ることができる。
2 老鼠寄来的第二封信
邮戳日期 1978年5月?日
我在想,上封信是不是说多了?但到底都说了些什么,我已经完全忘掉了。
我又转移了住所。现在的住所和以前的住所相比完全不一样。这里非常安静。对我来说安静得有点过分了。
但是从某种意义上讲这个地方对我来说是一个终结点。有一种感觉我必须应来到这里,而且应该是逆一切朝流而来到这里。但我却完全不能对此下结论。
写了几句不怎么样的话。或许还相当的笼统,但对你来说会怎么样呢?就完全不明白了。也许你在想我对自己的命运超出了应所给予的意义。当然让你那样想,其责任完全在我。
但是希望你能知道,我越想把我现在状况的核心给你讲清楚,我的文章就越会像风那样零乱起来。但是我自身还是很正规的,而且是至此还从来没有过这样的正规。
那就讲一讲具体的事情吧。
这里就像刚才所说的那样,安静地让人害怕。也没有其它事可做每天也就看书(这里有花十年时间也读不完的书)、听一听FM音乐频道和录音带(这里也有相当多的磁带)。这样认真地听音乐实际上已过了十年。“滚石”和“滨海音乐”还在持续活跃着,让人非常吃惊。所谓的时间总是连续的。我们根据自身的习惯整理时间,虽然有了那样的错觉,但的确时间是连续的。
在这里实际上并没有所谓自己的尺码。假如适合了自已的尺码而对他人是否合适?而实际上连这样的他人也并不存在。时间就像透明的河流那样流淌着。来到这里时不时地就会发展曝露自己的原形。比如我突然把眼睛盯向汽车,到认定它的确是汽车时还需要几秒钟的时间。当然一种本质性的认识虽然是有,但是不能会很好地和经验性的认识相一致。这样的事在最近总有发生。这大概是仅仅一个人长时间独立生活的原因吧。
从这里到最近的镇去,开车大约需要一个半小时。其实那里并不是什么镇。恐怕是一个小的不能再小的镇。你肯定是想像不到的。但它毕竟还小镇。可以买到衣服、食品和汽油。如果你想看的话,也可以看到人的模样。
老鼠的住所那样的安静。其周围环境是什么样的呢?和主人公所拿的照片有关系吗?